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意識と感覚 人間が失ってはならないもの意識と感覚 人間が失ってはならないもの

「意識」がコントロールしているもの

私たちが住む都会は、人間のつくったもので溢れかえっています。人間は意味のあるものをつくり、無意味なものを次から次へと排除していきます。一方、山などの自然に足を踏み入れると石や雑草が沢山ありますが、これらにはまったく意味がありません。もしも石ころがゴロゴロ都会に転がっていたら、誰かが片付けるでしょう。邪魔だと自治体に文句をいう人がいるかもしれない。無意味なものを徹底的に排除し、意味のあるものだけでつくり上げてきた世界が、都会なのです。

ロンドンもパリも昔は周囲を城壁で囲う城郭都市でした。城壁は外敵から都市を守るという機能ともう一つ大きな役割があって、それは結界です。中と外を仕切ることで、中は人間の住む場所だと区別した。いわば自分たちでコントロールできる場所です。そこは人間の意識だけでつくられるため、自然物を置かないという暗黙の約束がありました。だから、木はあるけれど、それは人間が植えたものです。花も草も同じ。人間が植えていないか、もしくは認めていないものは雑草だと言って引っこ抜く。そうやって意識したものだけを配し、都会はつくられていったのです。

私は〝意識〟でつくった社会を「脳化社会」と呼んでいます。人間が持っている〝感覚〟を遮断し、脳の中で図面を引いてつくったものやシステムのみを具現化させた世界です。いまや驚くべきことに世界の半分以上の人が都会に住んでいます。なぜかというと、自然は危険だからみんな意識がつくり出した都会の中に住みたがるんです。

意識の世界に住みたがるのは、危険な自然を意識がコントロールできると思っているからですが、大きな勘違いです。みんなは「自分が思ったから、行動している」と考えていますが、実は意識とは後付けです。考えてみれば、当たり前のこと。例えば、意識的に寝ることができますか。静かに布団に入っていると独りでに寝てしまうでしょ。起きる時も同じです。目覚ましのように、外から刺激を加えてもらわないと起きられない。さあ今から起きようと思って覚めているわけではありませんよね。
つまり意識は自主性がなく、主体性を持っていない。なのに、起きている間は、意識が主体だと信じ込んでいる。完全に錯覚ですね。身体を、即ち自然を、意識がコントロールなんてできないということです。

「同じ」を繰り返すことで生まれたもの

脳の意識的な部分は、個人間の差をなくして同じように捉えようとする性質を持っています。この共通性を追求したことで「ことば」が生まれました。「同じ」という捉え方ができないと言葉は使えません。

例えば、花という言葉。赤い花も青い花も黄色い花もあるのに、それを「花」という一言でくくるのは人間だけです。動物はそれぞれ違うと思っている。なんか似ているなぁとは思っているかもしれませんが、「同じ」とは見ていません。

その「同じ」は、何を生み出したか。りんご大、りんご小、梨、洋梨。猿がこれを見たら、食べられそうなものが4つあるなぁで終わりです。大きさは違っていても「同じ」りんごでくくれると考えるのが人間です。梨も2つを1つにできる。4つあったものが、「同じ」を1回使うと半分の2つになります。次にりんごと梨は果物という「同じ」でくくれる。これで4つを1つにまとめられます。
「同じ」にするとは、抽象化していくことです。より抽象度が高くなることで1つになる。どんなにたくさんあっても、「同じ」を使っていくと最終的に1つにできるのです。

宇宙の万物まで含めて「同じ」を繰り返していくと、最後の最後に出てくるのが、すべてを統合する神様、すなわち一神教です。「同じ」を繰り返すことで一神教という概念が生まれるのです。それに対し「違う」を認めるのが、八百万(やおよろず)の神ですね。こちらは神様が無限に存在し、一神教とは真逆です。今や世界の7割が一神教ですが、都市に住みたがるようになった人間が一神教を信仰することはごく自然な流れだと私は思っています。それは都市も一神教も、〝意識〟がつくったものだからです。

一方、日本はしばらく八百万の神の世界でした。それは我々の先祖たちは、〝意識〟よりも〝感覚〟を使ってものごとを捉えていたということでしょう。日本には豊かな自然があり、多様性に富んだ環境があったため、言語化されないことや意識化されないものの存在を認めることができた。あらゆるものを受け入れることで、神様も一つの神に収斂していかなかったんだと思います。

「意識」から「感覚」へ

近代になって、あちこちが都市化していったことで、そこで暮らす人々も急激に都会人になってしまいました。都市に住んでいるということは〝意識〟の世界に住んでいるということです。この世界に浸りすぎ、あらゆることを意識だけで判断しようとしてしまっているせいで、明らかに意識と感覚のバランスが崩れてきています。

「山に行ってみなさいよ」と言うと、平気な顔で「何があるんですか?」なんて返ってくる。行ってみなきゃわからないでしょう。多くの人が、「あーすれば、こーなる」という具合に考えてしまっている。それがダメなんです。山に行って歩けば、土の感覚や風の冷たさや鳥のさえずる声を感じることができる。それによってどんな影響を受けるのか。計算なんてできませんよ。なのに、できると思っている。そこが現代人のものすごく傲慢なところです。

今の人たちは何でもかんでもすぐに答えを欲しがりますが、違和感を持ち続けるってことが大事なんです。必ずしも答えはすぐには出ないことを受け入れる。だから、おかしいなと思ったら、ずっとおかしいなと思っているしかない。いつか答えが降ってくることもあるんですから。

私は昆虫が大好きで、虫取りに行くんですが、「なんでこんな虫がいるのか」ってことによく出くわします。でも、いるのは仕方がない。解剖だって、お腹の中からハサミが出てきたりすることもあるんです。でもあったものは仕方がない。博物学的な考え方は、この「あるものは仕方がない」からはじまります。「あってはならない」などと考えてしまうのは〝意識〟だけで判断することに慣れてしまっているからです。

役に立つか立たないか、お金になるかならないか、それが効率のいいものの見方だと思ってしまっている。役に立つかなんていうなら、それこそ山に行ってみればいい。役に立たない石ころが嫌ってほど転がっていますよ。それが自然というものです。まずはそれを受け入れること。迫ってくる台風に向かって、来てはならない、あってはならない、と言っても仕方ないでしょう。

日常生活の中に自然を取り入れ〝感覚〟を取り戻すために、私が提唱しているのが「現代の参勤交代」です。都会の人が、例えば数週間でもいいから、交代で自然の中に滞在する。自分の身体を使って野菜や米なんかをつくってみる。それだけでも全然違ってくると思いますよ。面倒だから農薬を撒くって人もいるでしょうし、有機でやるって人もいるでしょう。そんなことはどうでもよくて、大事なのは〝意識〟を休ませて〝感覚〟をフル活動させてみること。意味のあるもの、ないものが混在する自然に触れないと、人間どこかが歪んでくるんです。

田んぼだって役に立たないものがいっぱいありますから。だから草もむしる。でも、どこまでむしればいいのか。都会では、そういう無駄なものがあったら全部排除しちゃう。そうじゃない、意識ではない世界へ行ってみる。言葉では説明できないことがたくさんありますから。頭で考えるのではなく、体で感じなければわからないことがいっぱいあるんです。それを知れば、世界はぐんと広がります。自然の中に行ってみれば、自分自身で世界を狭くしていることに気がつくことができるでしょう。例えばピーナッツは木になっていると思っている人、案外多いんじゃないですか(笑)

養老孟司(ようろう・たけし)

解剖学者。1937年神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。水資源保全協議会会長。1995年、東京大学医学部教授を退官後、北里大学教授、大正大学客員教授を歴任。心の問題、社会現象などを解剖学やその他の医学や生物学を交えつつ解説する一般向けの書籍を数多く出版。また、ゾウムシの研究、昆虫採集、標本作成なども続けている。1989年『からだの見方』(筑摩書房)でサントリー学芸賞、2003年『バカの壁』で毎日出版文化賞特別賞を受賞。『バカの壁』は、これまでに400万部を超えるベストセラーとなっている。

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