お問い合わせ

共生と循環の島 日本初の世界遺産 屋久島共生と循環の島 日本初の世界遺産 屋久島

分断された生き物たちによる命のリレー

屋久島の森に足を踏み入れると、「自然」に対する固定観念を何度も揺り動かされる。この森では、木の根が眼前に姿を現し縦横無尽に広がっている。足元に土はない。大量の雨水が土を流してしまうのだ。代わりにあるのは栄養の乏しい硬い花崗岩。けれど、その表面には美しい緑色のコケがびっしりと敷き詰められている。水にあふれた湿気のある森はコケにとって理想的な環境であり、屋久島には約650種ものコケが生きているという。

美しい緑のコケに覆われた白谷雲水峡を進むと見晴らしのいい太鼓岩にたどり着く。目の前には屋久島最高峰の宮之浦岳をはじめ、黒味岳、永田岳といった山々を仰ぎ見ることができる。太鼓岩と宮之浦岳の間には緑豊かな森が広がっている。しかし、この森はすべての杉が切り倒された後、植林によって復活した森だ。

「屋久島を守る会」の中心メンバーであり、生まれ育った屋久島の暮らしを綴った『屋久島発、晴耕雨読』(野草社)の著書もある長井三郎氏は語る。

太鼓岩から見た宮之浦岳、黒味岳、永田岳

「あのあたりは屋久杉が一番集まっていた小杉谷という地域で、屋久杉の6割があったといわれています。けれど約50年で全部切り倒されてしまいました」

止まない伐採を目の当たりにした屋久島の島民たちは、昭和47年に伐採中止を求めて「屋久島を守る会」を結成した。
「外から見れば世界遺産素晴らしいねと思うだろうけど、島側の人間からすれば、森が切り刻まれて、追い詰められて、やっとこれだけ残ったという感じです。切られて切られて、かろうじて残ったのがこの世界遺産なんです」

子どもたちに残すべきもの

世界でも突出した降水量を誇る屋久島の雨は、山から川を通って海へ注がれ、蒸発して雲となり、再び山に降り注ぐ。絶え間ない循環が繰り返されてきたが、この島で60年以上の月日を過ごしてきた長井氏は、山と海を結ぶ川の変化を感じている。

「目の前を流れている川が、合成洗剤を使い始めた頃からすごく汚れ始めました。目に見えてわかるほどです」
私たちが使う水の量は1日に約200ℓという。そのうち飲み水は1%だけ。食器を洗い、服を洗い、風呂で体を洗い、大量の合成洗剤を使って私たちが綺麗になることと引き換えに川は汚れていった。海もまた同様だ。

「日本有数の漁場で、潜れば魚の種類も豊富だし、サンゴもキレイだと思うかもしれませんが、実は海の中もすごく変質してきています。木を伐採し尽くし、ハゲ山になれば、川を通じて、海もハゲるんです。山は山だけで存在しているのではないし、海は海だけで存在しているのではない。すべてはつながっています」

十数年前、海のサンゴが白化し死滅してしまったことがあった。例年なら台風が海水をかき混ぜ海水温を下げるのだが、その年に限っては台風の上陸はおろか接近することもなかったため、水温が下がらずサンゴがほぼ壊滅したそうだ。この島では台風すらも含めた自然現象を前提として、すべてが関わり合って成り立っている。山も川も海も、そしてそこに生きるあらゆる動植物たちも。もちろん人間もその中の一つだ。

長井氏は、自分たちはなんと幸せな子ども時代を過ごさせてもらったのだろうと思うそうだ。緑なす山から流れ出てくる清冽な水。泳ぎながら、そのまま飲める川で、長井氏たちは泳いでいたのである。子どもの頃から自然本来の輝きに触れていなければ、自然の変化に気づくことはできない。本物を知ることが、正しい判断基準になるのだ。だからこそ、長井氏は語る。

「せめて、綺麗な川を、未来の子どもたちにも残しておいてやりたい」

弁(わきま)えて生きるということ

私たちは飽くなき欲望を満たすために、ひたすら便利さと快適さを追い求めてきた。その結果、山や川や海や空を汚染し、地球や子どもたちに大きな重荷を背負わせてしまった。

豊かな自然に抱かれることで、自然の大きさを知り、そして自らの小ささを知り、自然の一員としての「分」というものを知る。そうやって知った分を弁えながら生きていくことの大切さを、人間は自然を通じて学んでいくのである。私たちは自然に対してもっと謙虚にならなければならない。生きるということにおいても、もっと慎み深くならなければならない。

「私は昔から、自分の食う分は手前でどうにかしたいという思いが強いんです。とは言っても狩猟採集生活を送るわけにはいきませんから、田畑を耕すしかありません。しかしこの島では耕せる土地が極端に少ないんです。農業を営む環境としては最悪です。屋久島は常に取る産業ばかりで、育てる産業がないんです。観光業も何かを育ててはいません。そういうあり方でおそらく縄文時代からずっときました。となると、〝今日はこっこさでよかよね(このくらいでいいよね)〟という分を弁える感覚がすごく大事だと思うんです。人間の欲望はどこまでも広がっていきます。次から次へと〝これ欲しいやろ、あれ欲しいやろ〟と責め立てられて買ってしまう。その辺りを変えなければならないと思います。自分たちが自然の中で生かされているということに気づき、〝これくらいでよかよね〟という弁えがないと持続なんてしないですよ。この島で縄文時代が長く続いたのは、逃げ場のない島という環境の中で、どうすれば永続的な暮らしができるのかということをちゃんと考えていたからでしょう」

森が教えてくれること

屋久島で流れる時間は実にゆったりとしている。長井氏はそんな屋久島の時間の流れこそが「何よりの宝物だ」と言う。車を飛ばして行くより、ゆっくり歩いた方がいろんなものがよく見えたりすることもあるだろうと。

「以前、島をぐるっと一周できる大型バスを通そうって話があったんです。そうすればもっと便利になるぞって。でも世界遺産のエリアも通ることになるので、結局中止になりました。時には不便な仕掛けが必要なんです。〝ゆったりとした時間と共に生きる〟ってことがわかっていないと、この文明はいつか転げ落ちてしまうんじゃないかと思うんです」

この島の森には数千年をかけて育った屋久杉が生えている。栄養が乏しい花崗岩の山地に生きる杉の生長は極めて遅い。けれど、ゆっくりと育つことで材質が緻密で樹脂分が多く、腐りにくいという特性を手に入れ、圧倒的な長寿を実現している。倒れた後もすぐに朽ち果てることなく、数百年という時を刻みながら、土に還っていく。人間には想像もつかない時間をかけて、この森は循環しているのだ。

倒木に生えたコケの上に、5センチにも満たない小さな杉の芽が出ていた。共生と循環の島で、また一つ新たな命が数千年先の未来に向かって、芽吹いている。

参考文献:『屋久島発、晴耕雨読』(野草社)

長井三郎(ながい・さぶろう)

1951年、屋久島宮之浦に生まれる。宮浦小学校、宮浦中学校、屋久島高校、早稲田大学卒業。1975年帰島し、屋久島を守る会の運動に参加。電報配達請負業、上屋久町歴史民俗資料館勤務、屋久島産業文化研究所スタッフ、南日本新聞記者とさまざまな職を転々。その間、一湊サッカースポーツ少年団の指導やおいわぁねっか屋久島、虹会、屋久島こっぱ句会、ビッグストーン、山ん学校21の活動に参加。現在民宿「晴耕雨読」経営。

インタビュー

養老孟司
小林達雄
松浦弥太郎
長井三郎